筑波海軍航空隊記念館
永遠の0のロケ地として期間限定で公開されている筑波海軍航空隊記念館に行ってきた。
JR常磐線で上野から特急で1時間程。駅から徒歩で30分弱くらい。タクシーかバスを使ったほうが効率はいいと思う。
この記念館、当初5月6日までの限定公開だったが、1年間の延長が決まったそうだ。
この筑波海軍航空隊庁舎は、戦後学校になったり、病院になったりしたようで、少し前まではこの地に設置されている茨城県立こころの医療センターの外来受付・管理棟だったそうだ。現在は新しい病棟が出来ていて、そちらに機能が移っているようだ。
実際に内部も映画で使用されたらしく、確かに見覚えのある場所がいくつか出てきた。
↑注意書き。この建物は70年くらい前に建てられたとか。
↑これはセットを再現したものだとか。
当時のポスターや実際に使用されていた品も展示されている。
右のポスターなんて、昭和19年まで使用されていたとキャプションにあった。選曲が悪くなっていく中、学生をパイロットとして徴募する。
展示品には実際に特攻に行かれた方の遺書もあった。呉にも特攻隊の遺書の展示があり、いくらか見てきたが、いつ見ても言葉につまるというかいたたまれないものだ。おれだって「死にたくねぇ」という感覚はわかるが、それでも死ににいく気持ちは正直わからない。でも、おれが死なないとみんな死ぬという感覚は当時確かにあったんだろう。当時の感覚は当時を生きた人間にしかわからんものだと思う。
現代のメンタリティだって未来からみれば狂気としか思えないかも知れない。だからこそ何のために死んだかはわかるが、理解出来ないという不思議な感覚になる。
もうひとつ。航空隊と直接関係は無い(と思うが)、金剛、赤城、翔鶴を乗り継いた人の寄贈品の展示があった。例えば上記は金剛のカップ。日本に3つしか無いとか。つまりここに全部あるわけで。
アルバムも寄贈されていて、写真がいくつか展示されている。上記は金剛からみた榛名。
戦争という一生忘れないような体験をしても、人間の記憶というのは薄れていくものらしい。
上記は赤城の写真として展示されているが、おそらく加賀だろうというキャプションが付いている。寄贈した人が赤城だと言っているから赤城として展示されているわけで、こういう記憶の混同が歳月を感じさせる。
「陸奥爆沈」の中で、爆沈した陸奥の生存者が「爆沈する直前に山本五十六に会った」という証言をしたという記述があった。でも山本五十六はとうの昔に戦死していて、いるはずがない。数十年の歳月が人間の記憶を改ざんしてしまった例として取り上げられていた。
そういうことは往々にして起きてるようだ。この点に関しては、現代の我々も他山の石ではない。
現在は使用されていない(と思われる)病棟をつなぐ廊下。病院の前は学校だったから、まさしく学校らしい風景だ。…航空隊も学校という意味では学校ではあるか。
学生のメンタリティというのは、今とあまり変わらない、と思う。時代ではなく、本質的な意味で。
戦前の航空隊の海軍記念日の様子の写真が展示されていたが、仮装して練り歩く愉快な姿はいかにも若者らしく見えた。雪の日に、雪かきしながら校庭の隅にできた雪山にお遊びで登る写真があった。どちらも現代でもありそうな光景だ。
だからこそ現代と戦争中の若者を明確に分けるものがなんだったのかがわからなくて、もどかしい。時代というやつなんだろうか。
お土産。
海軍航空隊なのに金剛グッズが売られているあたり大丈夫なのかと言いたくなくもないネー。